60年間ここを見守ってくれているおばあちゃん
創成川の東側は、昔は平屋建ての町工場(まちこうば)が立ち並ぶ下町で、
この時期になるとさっぽろ祭りで頓宮に子供たちが集まる、そんな場所だったそうです。
昭和30年頃はサーカス団が狸小路近くにやってきてピーヒャラとにぎやかだったり、
患者さんからの聞き伝えですが、象が逃げ出して大変だったなんてこともあったそうです。
戦時中は戦艦デッキを洗うために、戦後は自動車を洗うためのブラシを作っている工場や、
豊平川から汲み取るきれいな水を利用して、日本酒やビールの醸造所が並んだり、
日本海で捕れた鮭や鰊を、豊平川を船で上って集めた市場がにぎわい、
国道は定山渓鉄道がリンゴ畑の広がる豊平街道を通って八剣山の向こうまで伸びて、
頓宮の北側は、町中から線路を伸ばし狸小路をかすめて、市電が走っています。
そんな町の市電通りの前に、先祖代々秋田から開拓に入られ、
長く薬局を開かれているおばあちゃんがいらっしゃいました。
その年月は昭和の時代から続き、60年以上にもなるそうです。
毎日店を開けられ、薬だけでなく、地域の方々にそれ以上のものをくれている薬局です。
ある日に進行する病気を患われ、ついに番台に座ることができなくなってしまいました。
お店を引き継がれた息子さんご夫婦が一生懸命に大きな病院へ通院介助をされていましたが、
いよいよそれも難しくなり、当院からの往診を受けられることになりました。
母親想いの息子さんはいつも一生懸命、お店を守り、お母様の身体も守っていらっしゃいます。
熱が出たら薬を処方し、食事の量が少なくなったら食事の内容を工夫し、ひとくちひとくち時間をかけて食べさせてくれます。
大変だけれども、貴重な、母親が息子に教えてくれる最後の教育です。
普段の生活は7年間続き、地震で停電があった日に体調を崩されてしまったのですが、
そんな時期も息子さんご夫婦の一生懸命な介護と点滴で、乗り越えてくれました。
何度か肺炎を引き起こされたこともありましたが、
一度も入院することなく、過ごされていらっしゃいました。
長く口からものを食べる生活を続けるために、のみ込むという動作は必要です。
病院に入り誤嚥性肺炎の治療を受け終わると、
今は嚥下する機能を評価したり、リハビリを行ったりすることが一般的になりました。
また、歯科衛生士さんがいらしてくれて、口の中のケアを行うことも多くなりました。
いつまでも口から食事ができるために利用できるサービスは増えましたが、
なによりも欠かせないのは、やはりスプーンで口に食事を届ける、手間暇です。
毎日まいにち、一口ひとくちに時間と根気のかかる作業ですが、
食事を口の中に入れて、もぐもぐと噛んで、ごくんと飲みこむ。
その作業を手間暇かけて、毎日続けてくれる支援がなければ成り立ちません。
おばあちゃんは幸せ者です。
昔若い時に手塩にかけて育てた息子、
赤ん坊の時は一口ひとくちずつごはんをあげていただろうに、
今はその息子さんがお母さんに一口ずつお母さんの食事を手伝ってあげています。
その患者さんも、いよいよ厳しい体調になってきました。
ご家族に説明をし、東京など遠方にいらしたお孫さん方が皆集まり、
おばあちゃんのそばを囲んで小さな時の昔話をされています。
おばあちゃんが最後に下さった、楽しい時間です。
ある日の朝突然に、おばあちゃんは息を引き取られました。
頑張られた時にはたくさん点滴をしましたが、もう点滴をすることもありません。
創成川の東側は、街並みは変わりマンションがたくさん立ち並ぶ地域になってしまいました。
街並みは変わりましたが、子供の多い活気のある地域です。
また来年もそれより先もずっと、さっぽろ祭りのお神輿でにぎわうよう、
おばあちゃんは見守って下さっているような気がします。